※思いっきりネタばれしてます※

『レオナルドのユダ』服部 まゆみ(角川文庫) ’06 5/10

評価;A

は、半年以上前に読み終わった本ですが・・・・・。

『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで一気にレオナルドが好きになり、その影響で読んだ本です。たしか近所の本屋の『〜・コード』の特集コーナーに置いてあったんですよ。で、裏表紙のあらすじを読んだら面白そうだから、ついつい買ってしまった、と。

実はこの本、Amazonでもブクログでも評価が高くないんですね。でも私はとても気に入ったのです。
もともと狂気の愛というテーマが好きだからかもしれません。

さて、この本とは。

神に選ばれし万能の天才―画家にして彫刻家、科学者、医師、音楽家でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチ。気高く優雅な魅力を放つ彼の周りには、様々な人々が集っていた。貴族の跡取り息子でありながら、レオナルドに魅せられて画房の弟子となったフランチェスコ。フランチェスコの使用人でありながらレオナルドに憧れるジャン。絶世の美青年でレオナルドの愛情を一身に受けるサライ。愛するマルカントーニオの信頼を一身に受けるレオナルドを憎み、才能を決して認めようとしない毒舌の人文学者パーオロ。

裏表紙の説明より引用です。
が、この後、「天才レオナルドの魅力を真摯に描き、彼が遺した『モナ・リザ』の謎に迫る、著者渾身の歴史ミステリー。」とも続くのですが、私にはそれは主題でないように感じられてなりません。

偉大すぎるレオナルド・ダ・ヴィンチと接するうちに狂ったように彼に惹かれていく彼の周りの人物たちを描いた作品です。
光から陰が出来るように、「キリスト」から「ユダ」が生まれた。「レオナルドのユダ」もまた然り。その根底に流れるもの、それは共に狂信的偏狂的愛。
一方的な、そしてその愛のためであれば何でもできるという、まぁ周りからすればいわばはた迷惑な愛です。

ところで、話は少しずれますが、太宰治の作品に、「駆け込み訴え」という短編があるんです。
これはユダがイエスに対する思いをひたすら独白しているというものですが、これもまさに狂信的偏狂的愛です。

あの人ただ一人をひたすら想っている自分(ユダ)の気持ちにあの人(イエス)は全く気付いてくれない。こんなに愛しているのに。憎い。
そんなユダには、キリストの謳った真理でさえ、権力者を愚弄するものに思え、そしてそれは、権力者が自身(イエス)を殺すように仕向けている、つまり「自分を殺して欲しい」と訴えているように聞こえる。
殺そう。誰かの手によってではなく、自分の手で。 自分がきっかけとなって。
そして彼が死んだら自分も死のう。自分は彼を憎んでいたから。自分は彼を愛していたから。自分は彼を愛しているから。

20ページの作品なんですが、この直後に「走れメロス」が収録されてるんです。おわかりでしょうが、「走れメロス」とは、国王の反感を買い、死刑を言い渡されたメロスが、「どうしても妹に結婚式を挙げさせてやりたい」という願いを聞いてもらう代わりに、親友のセリヌンティウスに人質に差し出し(セリヌンティウスも了解済み)、三日後の日没までに自分の村へ戻り妹に結婚式をさせ、そして親友を助けるために再び刑場に戻ってくる、というお話です。

「駆け込み訴え」と「走れメロス」。どちらも人と人との繋がり、つまり「愛」を描いた作品です。
それなのにこの差。
一方は極端に偏った愛、一方はこれ以上ないほど純粋な愛。人を殺すことでさえ愛であるという考え方と、相手を信じ続けるという友愛。一人の作家が両極端な愛を描く。この著しく両極端に存在する愛を!
ほんの少しだけ作家に自殺者が多い理由がわかった気もしません?

さてさて、「駆け込み訴え」『レオナルドのユダ』の二作品と「走れメロス」には著しく異なった点が存在します。
それは、話の中心となる人物(「駆け込み訴え」の場合、イエスとユダ。『レオナルドのユダ』の場合、レオナルドとフランチェスコ,ジャン、マルカントーニオとパーオロ。「走れメロス」の場合、メロスとセリヌンティウス)の力関係です。
前者の二作品における登場人物(●●と○○)の間にとてつもない力の差が存在します。しかし後者の二人の立場はあくまで対等です。
前者では、弱者(ユダなど)は相手と並ぶことが出来ないのです。その結果が弱者からの一方的で極端な愛に繋がってしまうのだと思われます。相手があまりに上にいすぎるから、弱者からは手が届かない。そこに「光」と「陰」の関係が生まれるのです。手の届かない相手が「光」だとすると、手を伸ばしている者は何か?「陰」です。
光が存在すると、陰も存在せずを得ない。いや、下の者が光を所望する場合、「陰」にならざるをえないと言った方が正しいかもしれません。それがつまり、「ユダ」を生み出した理由。あまりに力の強い相手を自分のものにするためには、「ユダ」であるしかない。
対等に並ぶことはできない。しかし愛している。その場合取る手段とは、はたから見ると偏狭的な愛に他ならないのです。
『レオナルドのユダ』の「ユダ」とは、その弱者を指します。つまり、 この作品で言われる「レオナルドのユダ」とはフランチェスコとジャンのことであると考えられます。
ところで、逆に後者の場合、メロスたちには「光」と「陰」という概念がありません。力関係が存在しないのです。「光」「陰」で表せないので、どこにいても存在が変わらない、「物体」としてもいいかもしれません。だから対等で、互いを思いやれるのです。
相手との力関係、そこに絶対的な差があるんです。
まぁ、それはどちらが良い悪いの問題ではありませんが。

『レオナルドのユダ』の場合、レオナルドの汚点となる同性愛の事実を、レオナルドに心酔するフランチェスコとジャンは許せなかった。
愛するレオナルドの名が貶められるのであれば、レオナルドが愛した人物でさえ殺せるのです。

あの世のレオナルドは思っていたのではないでしょうか。
「余計なお世話だ」と。

それでも、二人にとっては、光が侵されることは許せないんです。
自分のことよりも断然に。

気持ちがわかるから、というわけではないような気もしますが、この登場人物たちの心情が面白くて面白くて。
それがAの評価を付けた理由です。

そういえば、『レオナルドのユダ』の主題に触れるところですが、この本を読んでいない友人が、「洗礼者聖ヨハネ」を見て、「『モナ・リザ』に似ている」と言いました。
なかなか興味深い発言です。

この本をきっかけに「洗礼者聖ヨハネ」の絵を見てみました。(http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/davinci_giovanni.html)
あまりの美しさにしばらく画面から目が離せませんでした。
美しいの一言。怖いぐらいの美しさ。不気味。それでも美しい。

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